カープのこと4

少し足踏みしましたが、カープ3連覇です。

すごいことだと思います、調べてみると、セリーグではジャイアンツのみです。

まあ、ジャイアンツは9連覇という大記録があります、この記録はこの先、破る事はできないでしょうね。

パリーグでは、古いですが、南海、阪急、西鉄、西武の記録があります。

西武は5連覇というのがあります、これもすごい記録ですね。

昨年は優勝した翌日、銀座の「タウ」に、ビールかけTシャツを午前10時半に購入しに行きましたが、2、3時間並んだ記憶があります。

なので、今年は夕方に行ってみることにしました、品切れと言うことは無いと思いますので。

横浜に用事がありましたので、その後に行きました、午後4時45分です、退社時間の少し前、という感じです。

が、です、列は短いですが並んでいました、なんてことでしょう、なんというカープ愛・・・

ただし、列が短かったので、並んだ時間は15分も無かったと思います。

ただ、退社時間なのか、自分の後に、徐々に人が増え、自分が購入した時点では、結構な列の長さでした、4時45分は大正解でした。

さあ、あとは、CS、そして日本シリーズです。

新井さんが、ビールかけの中締めで言っておられたように、セリーグのチャンピオンフラッグは手に入れました、しかし、これで満足はしてはいけない、日本一のフラッグが最終目的です。

がんばってください、CS突破、そして日本一になり、新井さんに花道を。

そういえば、黒田さん宅で、二次会やったんですかね。

これが、今年のビールかけTシャツです、制限いっぱいの枚数買いました。

自分にとっての、今年の二大ニュース、安室ちゃんの引退と、新井さんの引退、です。

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橋04 永代橋

永代橋、今回で最後にします。

たぶん竣工当時のものだと思います、橋名板です。

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反対側は、ひらがなとなっています。

大正15年(1926年)の竣工から、どれだけの方がこの橋を渡ったのでしょう。

この橋を渡る時には、いろんな感情、喜んだり、悲しんだり、出会いを求めて、別れを悲しんだり、とにかく、様々な思いを胸に、みなさんはこの橋を渡ったと思います。

ですから、自分は橋というのは、単なる建造物ではなく、渡る方のいろんな思いがしみ込んだ、特別なもの、と思っています。

昭和20年(1945年)3月10日、あの悲惨な出来事、東京大空襲がありました。

この永代橋、上流の清洲橋を渡って避難された方は、大勢いたと思います、みなさん必死だったと思います。

おそらく、お父さんや、お兄ちゃんは、戦争で招集され、残ったお母さんと子供ら、じいちゃんばあちゃんが、必死で渡ったと思います。

書家の井上有一さんの、「噫横川国民学校」を見て頂ければ、すさまじさ、悲惨さが、無知な私でも、少しですが理解できました。

そういう様々な思いや、悲惨な光景を経験した橋です、これからは多くの、良い思い出を平和な世の中を経験してもらいたいと思います、完全に擬人化していますが・・・・

なので、自分はこの永代橋を渡る時は、感謝の気持ちで渡ります、いろんな感謝で。

中央区側の横断歩道から、5車線ですが、時間帯で、上り下りの車線数が変更になります、そのための信号が、〇×です。

まあ、なんにしても、100年ほど前に建造された橋が、現在現役で5車線の橋です、渡るたびに思います、「日本は、あと200年は大丈夫」と。

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橋03 永代橋

今回も永代橋です。

ご存じの方、ほとんどいないと思いますが、中央区側の中央区に向かって右側に、橋の銘板があります、これです。

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さすがに古くて見づらいですが、大正15年、復興局となっています、そしてですよ注目すべきは、その上、(株)川崎造船所製作、となっています。

使われた鋼板は、当時の最先端技術で作られた、高張力鋼板らしいのですが、今の川崎重工業さんで作られた鋼板、つまり、神戸から運ばれた鋼板なのです。

船舶で運び、ここで組み立てられたのですね、大変な作業だったと思います。

それと、この写真見てください、橋脚部分です。

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少し見づらいかもしれませんが、薄い板を何枚も重ねて、厚い板としています。

それと溶接という技術は、当時は無かったのでしょう、すべてリベット(鋲)で組み立てられています。

作業もさることながら、すごい技術だと思いませんか、膨大な量の鋼板を組み合わせ、すべてリベットで組み上げていく、さすが、日本の匠の技です。

車では何度も通っていたのですが、初めて徒歩で永代橋を渡った時、すさまじい数のリベットと20mmにも満たない、薄い鋼板を何枚も何枚も重ねて、この巨大な橋ができています。

何かしらに圧倒され、あまりの感動に、少し涙してしまいました・・・

 

夜はブルーにライトアップされます、現代の摩天楼を背景に、約一世紀前に作られた、永代橋、負けていません、主役は、「永代橋」です。

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橋02 永代橋

今回は最も好きな橋、「永代橋」を紹介します。

最初の架橋は、1698年(元禄11年)です、古いですよねえ。

五代将軍、綱吉さんの50才の誕生日の記念として、上野、寛永寺本堂の予材を使って架けられたそうです。

元禄11年と言えば、今で言うバブル、お金はありますんで、と言うことで架けられた橋ですが、まあ、どうなるかは今も昔も変わらずです。

橋というのは、メンテナンスが重要、よって、架けた後も、お金がかかります。

当面は調子良かったのですが、バブルがはじけると、メンテナンス費用の捻出に幕府(国)が苦労します。

で、苦肉の策として取った方法が、民間委託です。

方法として、悪くはないのですが、民間委託は監視をしっかりしていないと、手を抜きます。

橋賃(橋を渡るのを有料にする)を取り、メンテ費用に充てる(たぶん)などしていたのですが、1807年(文化4年)大きな事故が起きます。

当時は今と違って、娯楽イベントが少なかったと思います、そこで4年に一度の、深川八幡(今の富岡八幡宮のことかと)の大祭が行われ、おそらく何万人という人が、永代橋を渡ったのです。

橋上は、おそらく人でぎっしりだったと思います、悪いことにメンテナンスが手抜き、人の重さに耐えられず、深川側に近い箇所が落橋しました。

不幸なことに、大勢の方が亡くなりました、一説には1500人とあります。

これはまずいとなり、再び幕府(国)が管理することになったようです。

それから、何度か架け替えが行われ、1897年(明治30年)に初めて鉄橋となりました。

不幸にも、1923年の関東大震災で被害を受け、1923年(大正12年)に復興事業の一環として橋の架け替え工事着工、1926年(大正15年)現在の「永代橋」竣工です。

当時は、車の通行はほとんどなかったと思います、せいぜい、馬車、荷車程度が重量のある方かと、その90年以上前に架けられた橋が、今は現役どころか、5車線の橋です。

次回も、「永代橋」について記載します、あまりに好きな橋なので。

 

スカイツリー永代橋

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今年(2018年)の桜の季節に

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橋01 豊海橋

橋が好きです、眺めるのも好きですが、その橋の歴史をひもとき、その上で眺めると、また一段と感慨深いものがあります。

 

見て頂きたい、知って頂きたい橋はたくさんありますが、最初に紹介させて頂くのは、「豊海橋(とよみばし)」です。

なぜこの橋かと言いますと、改修しているからです。

橋の改修に出くわすのは、そんなに珍しい事ではありませんが、改修の方法がちょっと変わっていますので(ちょっとですが・・・)

 

豊海橋は、隅田川の支流、日本橋川の最初の橋です、こんな順番です。

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豊海橋、湊橋、茅場橋と続きます、隅田川からの最初の橋です。

歴史は古いです、江戸時代、1698年に架橋されたらしいです。

永代橋は現在、豊海橋の南側に位置しますが、江戸時代は北側に架かっていました。

赤穂討ち入り後、本所の吉良邸を出て、永代橋、豊海橋を渡り、その先の霊岸橋を渡り、泉岳寺方面に行進したと言われています、それくらい古い橋です。

今の橋は、竣工1927年(昭和2年)と言いますから、古いことは古い、改修が必要ですよね。

豊海橋は、フィーレンディール橋と言う、はしごを横にしたような構造で、比較的珍しい形だそうです。

形と色合いがすばらしいと思います、江東区側より撮影したものです。

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美しい・・・・

さすがに古くなったので、全面通行止めにして、改修工事をしています。

ただ、人は通れるように、仮人道橋が架かっています、改修後は撤去されるのでしょうか。

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豊海橋もですが、永代橋清洲橋も似たような時期の竣工ですよ、すごくないですか。

90年以上も前に作られた橋が、バリバリの現役ですよ、永代橋は5車線で、永代橋通りの名前の由来ですよ、何度も改修工事をしたとはいえ、すごいです。

豊海橋の改修工事は、2019年5月終了の予定だそうです、中央区のHPに記載がありました。

広島に行ってきました6

さて、広島・呉より東京に帰ります。

2018年8月18日です、この時点では呉線はまだ不通の状態ですが、広島-坂は開通していました。

呉線をご存じない方は、何のことやら、さっぱりだと思いますので、簡単に説明します。

広島県呉市に行こうとしますと、方法はいろいろあるのですが、新幹線を利用される方のほとんどは、呉線を利用されます。

山陽新幹線の広島で降車し、呉線に乗り換えます。

呉線は広島から海岸沿いを走り、尾道の近く、三原まで通っています。

広島も三原も山陽本線、新幹線の駅があります、呉は呉線の中間に位置します。

広島からも、三原からも呉には行けますが、圧倒的に広島からの方が近いです。

呉線は、単線です、東京の方の感覚では、たぶんとてもゆったりと走る電車、と思われることでしょう。

広島-呉は約45分くらいかかります、最近は安芸路ライナーという、快速が導入されて、それだと30分くらいでしょうか、いずれにしても時間がかかります。

呉にお住まいの方は、広島への通勤・通学にはこの呉線を利用しますので、いかに単線とは言え呉市民にとっては、とても重要な電車です。

それが、7月の豪雨で不通になったのですから、呉市民のみなさんは、とてつもなく不便な思いを余儀なくされたことと思います。

さて、8月18日、この呉線が、広島から坂という駅まで開通となっています。

坂(さか)は呉と広島の中間、どちらかというと、広島に近いかと。

呉から広島までたどり着かなきゃなりません、JRさんが、呉から坂までバスを代行運行してくれてます、それを利用します。

バスで1時間はかからなかったと思います、坂駅に到着し、呉線の電車で広島まで、広島から新幹線で無事東京に帰ることができました。

 

もう、みんな困ってるんだから、呉線、速攻で直して頂きたい、と思っていました。

とんでもない勘違いです、坂までのバスは海岸沿い、呉線とほぼ並行して走りますが、もう想像を遙かに超えた、土砂災害です、巨大な熊手でひっかいたような場所が、いたる所に・・・・

ほんとに、被害に遭われた方、お見舞い申し上げます、微力ですが少しでも自分にできることをしたいと思います。

そして、呉線や道路の復旧に頑張っておられる、たくさんの方たちに感謝と敬意を表します、ありがとうございます、暑い中ご苦労様です。

バスからの撮影なので、見づらいと思いますが、復旧の現場です。

土曜日です、これ見たら、頭下がりました、ありがたくて、涙出そうでした。

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広島に行ってきました5

枡(ます)の補修です。

まず、塩ビのパイプ(直系10cm)にビニールをガムテープで取り付けます。

それを、漏斗(じょうご)のようにして、上流から流れてくる水を、枡に流れないようにして、下流の管にバイパスさせます。

↓こんな感じです、枡に水が流れ込んでないのわかりますでしょうか。

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↓枡内に水がない状態で、セメントを流し込みます。

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↓約1日そのままにして、セメントを固め、バイパスのパイプを取り除きました。

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まあ何とか、まともな流れになったようです、右が上流、左が下流です。

 

まあ、しかし、素人のやったことです、まともではないと思います。

ものすごく恐縮なのですが、一応呉市さんの方に連絡してみました。

状況を説明しますと、土木維持課という部門が担当されているようで、対応して頂けるかどうかはっきりしないそうです。

たとえ対応して頂けるとしても、大変な時期なので、こんな些細なことは優先順位は最下位で結構ですと、お伝えし、追って文章で説明したものを送付させて頂くということにしました。

畑に穴ぼこが開いたくらいで、連絡させて頂くのも恐縮です、とにかく被災された方を最優先で復興して頂きたいと思います、頑張ってください、呉市のみなさん、広島県のみなさん。

 

長くなるので、続きます。