橋05 清洲橋

今回紹介します橋は、清洲橋です。

中央区日本橋中州と江東区の清澄を結ぶ橋です、橋名は公募で決めたとありますが、清澄の「清」、中州の「州」で清洲橋となるのは、おそらく既定路線だったと思います。

清洲橋は、「きよすはし」と読みます、橋銘板です。

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元はここには橋はなく、中州の渡し、舟での移動だったようです。

関東大震災の復興事業の一つとして、また、下流永代橋とのペアの工事として架橋された橋です。

1926年(大正15年)着工、1928年(昭和3年)竣工です、ほとんど永代橋と同時期です。

男性的な永代橋、女性的な清洲橋、としてペアの橋として愛されています。

1979年(昭和54年)その清洲橋永代橋の間に、橋を架けました、隅田川大橋です。

目的は首都高速の混雑緩和などで、二層の橋です。

せっかくの、ペアの橋の景観を損ねる、と反対はあったのですが、まあ、架橋して大正解だったと思います、混雑緩和で。

清洲橋です、吊り橋です、美しいです。

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スカイツリー建設中の写真です、2010年5月の撮影です。

夜はライトアップされます、これもまた美しいです。

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次回も清洲橋にします。

広島に行ってきました7

10月11日に広島に行ってきました。

今回の目的は、実家の畑の草刈りと、妹の家の稲刈りの手伝いです。

妹の旦那さんの田んぼで代々受け継がれたもの、狭いながらも三面あります。

普段はそんなに人手は必要ないのですが、さすがに稲刈りは多い方が良いようです。

今回は、妹の旦那さん、旦那さんの弟さん、妹の息子(社会人)、妹の娘の旦那さん、そして自分、と男手が五人とこれまでにない、大人数でかなりのハイペースで作業は進んだようです。

稲刈り機の調子が悪くて、始まりがかなり遅れましたが、当日で作業は完了しました。

今は珍しくなった、天日干しです、晴れの日のみのカウントで二週間だそうです。

雨に打たれても良いのかと質問すると、妹いわく、雨に打たれるからこそ味が良くなる、のだそうです。

翌日は、家の畑の草刈りです。

ほぼ二ヶ月ほっておくと、こんな状態です。

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で、徹底的に草刈りを行い、ここまで綺麗にしました。

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レモンの木は植えて三年目になります。

今年は、雑草の中がんばってくれて、一個だけですが実を付けました。

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呉線ですが、広島より広まで復旧していました。

広駅は、呉駅の三つ先の駅です、感謝です。

カープのこと4

少し足踏みしましたが、カープ3連覇です。

すごいことだと思います、調べてみると、セリーグではジャイアンツのみです。

まあ、ジャイアンツは9連覇という大記録があります、この記録はこの先、破る事はできないでしょうね。

パリーグでは、古いですが、南海、阪急、西鉄、西武の記録があります。

西武は5連覇というのがあります、これもすごい記録ですね。

昨年は優勝した翌日、銀座の「タウ」に、ビールかけTシャツを午前10時半に購入しに行きましたが、2、3時間並んだ記憶があります。

なので、今年は夕方に行ってみることにしました、品切れと言うことは無いと思いますので。

横浜に用事がありましたので、その後に行きました、午後4時45分です、退社時間の少し前、という感じです。

が、です、列は短いですが並んでいました、なんてことでしょう、なんというカープ愛・・・

ただし、列が短かったので、並んだ時間は15分も無かったと思います。

ただ、退社時間なのか、自分の後に、徐々に人が増え、自分が購入した時点では、結構な列の長さでした、4時45分は大正解でした。

さあ、あとは、CS、そして日本シリーズです。

新井さんが、ビールかけの中締めで言っておられたように、セリーグのチャンピオンフラッグは手に入れました、しかし、これで満足はしてはいけない、日本一のフラッグが最終目的です。

がんばってください、CS突破、そして日本一になり、新井さんに花道を。

そういえば、黒田さん宅で、二次会やったんですかね。

これが、今年のビールかけTシャツです、制限いっぱいの枚数買いました。

自分にとっての、今年の二大ニュース、安室ちゃんの引退と、新井さんの引退、です。

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橋04 永代橋

永代橋、今回で最後にします。

たぶん竣工当時のものだと思います、橋名板です。

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反対側は、ひらがなとなっています。

大正15年(1926年)の竣工から、どれだけの方がこの橋を渡ったのでしょう。

この橋を渡る時には、いろんな感情、喜んだり、悲しんだり、出会いを求めて、別れを悲しんだり、とにかく、様々な思いを胸に、みなさんはこの橋を渡ったと思います。

ですから、自分は橋というのは、単なる建造物ではなく、渡る方のいろんな思いがしみ込んだ、特別なもの、と思っています。

昭和20年(1945年)3月10日、あの悲惨な出来事、東京大空襲がありました。

この永代橋、上流の清洲橋を渡って避難された方は、大勢いたと思います、みなさん必死だったと思います。

おそらく、お父さんや、お兄ちゃんは、戦争で招集され、残ったお母さんと子供ら、じいちゃんばあちゃんが、必死で渡ったと思います。

書家の井上有一さんの、「噫横川国民学校」を見て頂ければ、すさまじさ、悲惨さが、無知な私でも、少しですが理解できました。

そういう様々な思いや、悲惨な光景を経験した橋です、これからは多くの、良い思い出を平和な世の中を経験してもらいたいと思います、完全に擬人化していますが・・・・

なので、自分はこの永代橋を渡る時は、感謝の気持ちで渡ります、いろんな感謝で。

中央区側の横断歩道から、5車線ですが、時間帯で、上り下りの車線数が変更になります、そのための信号が、〇×です。

まあ、なんにしても、100年ほど前に建造された橋が、現在現役で5車線の橋です、渡るたびに思います、「日本は、あと200年は大丈夫」と。

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橋03 永代橋

今回も永代橋です。

ご存じの方、ほとんどいないと思いますが、中央区側の中央区に向かって右側に、橋の銘板があります、これです。

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さすがに古くて見づらいですが、大正15年、復興局となっています、そしてですよ注目すべきは、その上、(株)川崎造船所製作、となっています。

使われた鋼板は、当時の最先端技術で作られた、高張力鋼板らしいのですが、今の川崎重工業さんで作られた鋼板、つまり、神戸から運ばれた鋼板なのです。

船舶で運び、ここで組み立てられたのですね、大変な作業だったと思います。

それと、この写真見てください、橋脚部分です。

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少し見づらいかもしれませんが、薄い板を何枚も重ねて、厚い板としています。

それと溶接という技術は、当時は無かったのでしょう、すべてリベット(鋲)で組み立てられています。

作業もさることながら、すごい技術だと思いませんか、膨大な量の鋼板を組み合わせ、すべてリベットで組み上げていく、さすが、日本の匠の技です。

車では何度も通っていたのですが、初めて徒歩で永代橋を渡った時、すさまじい数のリベットと20mmにも満たない、薄い鋼板を何枚も何枚も重ねて、この巨大な橋ができています。

何かしらに圧倒され、あまりの感動に、少し涙してしまいました・・・

 

夜はブルーにライトアップされます、現代の摩天楼を背景に、約一世紀前に作られた、永代橋、負けていません、主役は、「永代橋」です。

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橋02 永代橋

今回は最も好きな橋、「永代橋」を紹介します。

最初の架橋は、1698年(元禄11年)です、古いですよねえ。

五代将軍、綱吉さんの50才の誕生日の記念として、上野、寛永寺本堂の予材を使って架けられたそうです。

元禄11年と言えば、今で言うバブル、お金はありますんで、と言うことで架けられた橋ですが、まあ、どうなるかは今も昔も変わらずです。

橋というのは、メンテナンスが重要、よって、架けた後も、お金がかかります。

当面は調子良かったのですが、バブルがはじけると、メンテナンス費用の捻出に幕府(国)が苦労します。

で、苦肉の策として取った方法が、民間委託です。

方法として、悪くはないのですが、民間委託は監視をしっかりしていないと、手を抜きます。

橋賃(橋を渡るのを有料にする)を取り、メンテ費用に充てる(たぶん)などしていたのですが、1807年(文化4年)大きな事故が起きます。

当時は今と違って、娯楽イベントが少なかったと思います、そこで4年に一度の、深川八幡(今の富岡八幡宮のことかと)の大祭が行われ、おそらく何万人という人が、永代橋を渡ったのです。

橋上は、おそらく人でぎっしりだったと思います、悪いことにメンテナンスが手抜き、人の重さに耐えられず、深川側に近い箇所が落橋しました。

不幸なことに、大勢の方が亡くなりました、一説には1500人とあります。

これはまずいとなり、再び幕府(国)が管理することになったようです。

それから、何度か架け替えが行われ、1897年(明治30年)に初めて鉄橋となりました。

不幸にも、1923年の関東大震災で被害を受け、1923年(大正12年)に復興事業の一環として橋の架け替え工事着工、1926年(大正15年)現在の「永代橋」竣工です。

当時は、車の通行はほとんどなかったと思います、せいぜい、馬車、荷車程度が重量のある方かと、その90年以上前に架けられた橋が、今は現役どころか、5車線の橋です。

次回も、「永代橋」について記載します、あまりに好きな橋なので。

 

スカイツリー永代橋

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今年(2018年)の桜の季節に

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橋01 豊海橋

橋が好きです、眺めるのも好きですが、その橋の歴史をひもとき、その上で眺めると、また一段と感慨深いものがあります。

 

見て頂きたい、知って頂きたい橋はたくさんありますが、最初に紹介させて頂くのは、「豊海橋(とよみばし)」です。

なぜこの橋かと言いますと、改修しているからです。

橋の改修に出くわすのは、そんなに珍しい事ではありませんが、改修の方法がちょっと変わっていますので(ちょっとですが・・・)

 

豊海橋は、隅田川の支流、日本橋川の最初の橋です、こんな順番です。

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豊海橋、湊橋、茅場橋と続きます、隅田川からの最初の橋です。

歴史は古いです、江戸時代、1698年に架橋されたらしいです。

永代橋は現在、豊海橋の南側に位置しますが、江戸時代は北側に架かっていました。

赤穂討ち入り後、本所の吉良邸を出て、永代橋、豊海橋を渡り、その先の霊岸橋を渡り、泉岳寺方面に行進したと言われています、それくらい古い橋です。

今の橋は、竣工1927年(昭和2年)と言いますから、古いことは古い、改修が必要ですよね。

豊海橋は、フィーレンディール橋と言う、はしごを横にしたような構造で、比較的珍しい形だそうです。

形と色合いがすばらしいと思います、江東区側より撮影したものです。

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美しい・・・・

さすがに古くなったので、全面通行止めにして、改修工事をしています。

ただ、人は通れるように、仮人道橋が架かっています、改修後は撤去されるのでしょうか。

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豊海橋もですが、永代橋清洲橋も似たような時期の竣工ですよ、すごくないですか。

90年以上も前に作られた橋が、バリバリの現役ですよ、永代橋は5車線で、永代橋通りの名前の由来ですよ、何度も改修工事をしたとはいえ、すごいです。

豊海橋の改修工事は、2019年5月終了の予定だそうです、中央区のHPに記載がありました。